【物語】忠君愛国|会社に忠実だった日、私は自分に嘘をついた|沈黙という批判(ショート・ショート)

忘却の言葉たちシリーズ

※この物語はフィクションです。特定の企業・団体とは一切関係ありません。
これは、ある会社の話ではまりません。どんな会社にも潜む「構造」について書いたものです。

これは、数年前の出来事。

その日、私は嘘をついた。
会社のために。そして、自分が傷つかないために。

たぶん、あなたもやったことがある。

目次

株主総会の準備

朝の空気が、やけに重く感じた。冷たい雨が、窓ガラスを叩き続けている。

何かが、変わり始めている気がした。それが良いことなのか、悪いことなのか、じぶんには分からない。

じぶんは、ある会社の総務にいる。
まあ、普通のサラリーマン。

ほどほどに働いて、ほどほどに生きる。
それが、じぶんのスタイルだ。

今日の仕事は、株主総会の準備だ。

会場のレイアウトを確認して、マイクの音量をチェックして、役員用の資料を人数分だけ印刷する。

地味な仕事だが、嫌いじゃない。


ただ、今年の総会は、少し違う。経営陣主導のプロジェクトで、問題が発覚した。

業績悪化と信用失墜。株主から、批判が出るはずだ。

でも、この会社では、誰も経営陣を批判しない。役員も、部長も、みんな黙っている。

「経営判断は正しい」
「会社のために尽くすべきだ」
「批判は組織への裏切りだ」

そういう空気が、オフィス全体を覆っている。

じぶんの隣には、入社三年目の若手社員が座っている。総務に配属されて、半年。真面目で、よく働く。

彼の今日の仕事は、総会で使用する「用意された質問」の準備だ。重要なのは、公表される「調査報告書」の核心部分に触れないようにするための質問。

すなわち、組織的な問題を、現場の末端社員数名の「個人的なミス」として矮小化し、経営陣の責任を回避する筋書きを、質問によって補強するのだ。

「これ、本当にやるんですか」

彼は、用意された質問リストを見つめながら、小声で尋ねた。

「総務の仕事だからな」

じぶんは、それだけしか答えなかった。彼は、黙って資料をめくった。その手が、わずかに震えていた。

諫言という言葉

ふと、古い記憶が蘇った。

子どもの頃、祖父が営む小さな古本屋で、埃まみれの棚を手伝ったことがある。店は今にもつぶれそうで、天井には雨漏りの跡が滲んでいた。ページをめくるたび、紙の匂いと時間の粉が舞い上がった。

祖父は、茶色く焼けた帳簿に万年筆で文字を刻みながら、ぽつりと言った。

「お前な、『諫言(かんげん)』って言葉、知っとるか?」

雨漏りの跡をなぞるように、祖父の声がゆっくりと響いた。

「昔はな、主君が間違ったとき、命を懸けて諫(いさ)めるのが、本当の忠義だったんじゃ。黙って従うことじゃない。間違いを指摘することが、真の愛なんじゃ」

祖父は、帳簿の端に、かすれた文字で「忠」と書いて、丸で囲んだ。その声は、古い畳の匂いと混ざって、胸の奥に沈んでいった。

じぶんは、その時は意味が分からなかった。
でも、今なら、分かる気がする。

記憶は、そこで途切れた。


総会前日。彼は、深夜まで残っていた。用意された質問を、何度も書き直している。

「もういいだろ。ほどほどにな」

声をかけたが、彼は首を振った。

「会社のために、やらないと」

その言葉に、私は何も言えなかった。

私は、デスクに戻った。頭の中で、何かが、カチッと音を立てた。

スイッチが、入った。
やばい、また徹夜しそうだ。

でも、止められない。
まあ、今日だけは、ほどほどじゃなくてもいいか。

じぶんは、立ち上がった。冷たい水を一杯だけ飲んで、デスクに戻る。

彼は、まだ席にいる。私は、彼のデスクに近づいた。書類の束の横に、付箋を一枚貼る。

「疑問を持つことは、悪いことじゃない」

それだけ。行動じゃない。ただの、小さな痕跡。私は、すぐに自分の席に戻った。

書類を引き出しにしまい、付箋を一枚だけ残す。
「忠君愛国」と書かれた、たった一枚。

椅子に深く座り直し、背もたれに体を預ける。目を閉じて、深く息を吸う。そして、ゆっくり吐く。

三回、呼吸を繰り返す。そのたびに、頭の中のざわめきが、少しずつ静かになっていく。

よし。

じぶんは、パソコンの画面を開いた。その夜、私は、調べ始めた。

「忠君愛国」という言葉について。

自分のために。明日、黙って従うのは、私自身かもしれないから。

井上毅の無念

忠君愛国。君に忠実で、国を愛する。

この言葉が、力を持ったのは、明治時代。西洋文明の流入によって、日本の伝統的な秩序が揺らいだ時代。

政府は、国民を一つにまとめる必要があった。そして、この言葉を、教育の中心に据えた。

私は、一つの文書に辿り着いた。

『教育勅語』。

明治二十三年、明治天皇の名のもとに発布された、教育の基本方針。その起草には、二人の人物が関わっていた。

井上毅(こわし)—穏健な内容を目指した法学者。元田永孚(ながざね)—「忠君」を最優先にすべきと主張した侍講。

元田は、井上の草案を見て、激怒した。
「忠君が、最後とは何事か!」

元田の一声で、草案は書き直された。

私は、『教育勅語』の本文を読んだ。
「父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ 朋友相信シ……」

ここまでは、井上の理想だった。

しかし、最後に、こうある。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

「国に危機があれば、天皇のために命を捧げよ」
この一文が、すべてを変えた。

私は、井上毅の記録を読んだ。
井上は、元田の修正によって草案が原形を留めないものになったことに、深い無念を感じていたという。

しかし、陛下の御裁可を仰ぐ以上、これ以上の抵抗はできなかった。

画面の光が、窓ガラスに反射して、青白く揺れた。

井上の言葉が、まるで雨に濡れた紙のように、静かに滲んでいく。

この一文の、何という静けさ。
私も、同じだ。信念を曲げざるを得ない。黙って従わざるを得ない。井上と、私は、同じだ。

彼は、自分の信念を、曲げざるを得なかった。彼もまた、「忠君」という言葉に、縛られていた。


気づけば、時計は深夜二時を回っていた。

「ほどほどに、しないとな」

じぶんは、コートを羽織って、外に出た。近所のコンビニまで、歩く。

冷たい雨が、顔に当たる。過熱した思考が、少しずつ静まっていく。

炭酸水を一本買って、その場で口をつける。冷たい炭酸が、喉を焼くように通り過ぎる。

デスクに戻ったとき、頭は冷えていた。じぶんは、さっきまで、何を調べていたんだ。
諫言。忠実。良心。我ながら、総務らしくない。

吉田松陰の良心

私は、さらに遡る。

吉田松陰。幕末の思想家であり、教育者。

彼は、幕府の禁令を破って、黒船に乗り込もうとした。日本の未来のために、西洋の技術を学ぶ必要があったからだ。

彼は、捕らえられた。牢獄の中で、弟子への最後の手紙を書いた。

「君たちは、私の志を継いでくれ。しかし、私のように、盲目的に従ってはならない。自分の頭で考え、自分の良心に従え。それが、真の忠義だ」

私は、松陰の獄中の記録を読んだ。処刑の前日、弟子たちへの最後の手紙。

「私は、明日、死ぬ。でも、恐れはない。君たちが、私の志を継いでくれるならば」

その手紙の端に、小さく、こう書かれていた。

「母上、長生きしてください」

二十九歳の青年が、最期に願ったのは、革命でも、名誉でもなく、母の長寿だった。

私は、画面から目を離した。

松陰は、知っていた。自分の行動が、権力に背くことだと。それでも、彼は、自分の良心に従った。これが、本当の「忠」だった。

君主への盲従ではなく、自分の良心への忠実。そして、松陰は、処刑された。安政六年、二十九歳。

彼の最期の言葉。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

彼は、自分の志を、次の世代に託した。でも、その「志」は、後の時代に、歪められた。

「天皇への絶対服従」へと。

井上は、諫言できなかった。松陰は、諫言した。

どちらも、忠に生きようとした。だが、時代が、彼らの「忠」を歪めた。

源俊賢の諫言

では、その「良心に忠である文化」は、いつ失われたのか。

私は、さらに遡った。

平安時代。藤原道長。
摂関政治の全盛期を築いた、権力者。

彼の時代、朝廷には、「諫言」の文化があった。私は、一人の人物に注目した。

源俊賢(としかた)。道長と同世代の公卿であり、道長の娘の婿でもあった。

ただ一度、彼は、道長に異を唱えた。道長が、近しい者への配慮から、不当な人事を命じようとした時のことだ。

「これは、先例に反します」

俊賢の声は、静かだった。道長は、その人事を取り下げた。

そして、後に、こう言った。

「俊賢のような者こそが、真に朝廷のためになる人材である。私のために動く人間ばかりでは、公の政治が、立ち行かなくなる」

道長は、理解していた。

「公のために、君を諌める者こそ、真の忠臣である」と。

これが、本来の「忠」だった。君主への盲従ではなく、公の道理への忠実。

俊賢が忠実だったのは、道長ではなく、「公の道理」だったからだ。

言葉は、変わる。
権力が、都合よく解釈を変える。

平安の「諫言」は、江戸の「上意下達」に変わった。そして、明治の「忠君愛国」は、「天皇への盲従」になった。

井上毅も、吉田松陰も、その言葉に、縛られた。


私は、「忠」という文字の、本来の意味を調べる。

「忠」—心を尽くす。

儒教における「忠」の本来の意味は、「真心を尽くす(尽己)」こと。

自分の良心への忠実だった。しかし、権力者によって、「君主への無批判な服従」へと、歪められた。

対象が変わっても、構造は変わらない。

「忠」は、かつて天皇に向けられた。今は、会社に向けられている。「諫言」は、「組織への裏切り」として、排除された。

この歪曲は、終わったのか。
いや、終わっていない。

若手社員が、会社の問題を知りながら、それを批判できないのは、なぜか。

「忠君愛国」という言葉に、今も、縛られているからだ。

この「会社への忠誠」は、「天皇への忠誠」と、構造が同じだ。

「経営判断は正しい」
「批判は組織への裏切りだ」
「会社のために尽くせ」

これらの言葉が、私たちを縛っている。そして、私たちは、それを「当然」だと思っている。


気づけば、外が明るくなっていた。

じぶんは、時計を見た。
朝の六時。また、朝か。

でも、答えは見つけた。
答え、というほどのものでもないけど。

私は、立ち上がって、窓を開ける。冷たい空気が流れ込んできた。雨は、まだ降っていた。

株主総会当日

そして、株主総会の日。

会場は、緊張感に満ちていた。経営陣が壇上に立ち、事業報告を始めた。

案の定、株主から、問題に対する批判が噴出した。経営陣は、答えに窮していた。

そのとき、用意されていた質問者の一人が、立ち上がった。

「経営判断は、長期的視点に立った、素晴らしいものです」

用意された質問を、読み上げる。会場が、少しざわついた。

じぶんは、若手社員を見た。彼は、うつむいていた。両手を、膝の上で握りしめている。その手が、震えていた。

私は、何もできなかった。ただ、観察するだけ。あの付箋が、彼の目に留まったのかどうかも分からない。

総会は、予定通り終わった。経営陣は、批判をかわし、用意された質問によって、場を締めくくった。

若手社員は、疲労困憊し、デスクでうなだれていた。私は、遠くから、それを見ていた。

声をかけない。席を立たない。じぶんは、何もできない。ただ、見届けるだけだった。

それが、せめてもの「忠」だと思った。

しばらくして、若手社員が、給湯室に向かった。私も、コーヒーを淹れに行った。

給湯室で、彼は一人、コーヒーを淹れながら、スマホの写真を見ていた。

赤ちゃんの写真。

「ごめんな」

彼は、小さく呟いた。

「パパ、嘘ついちゃった」

その声は、誰にも聞こえないはずだった。私は、廊下で、それを聞いてしまった。声をかけられなかった。ただ、立ち尽くすだけだった。

沈黙という批判

その夜、私は定時で帰る準備をしていた。そのとき、若手社員が、私のデスクまで歩いてきた。

「あの……」

彼は、迷うように、言葉を探していた。

「株主総会のこと、なんですけど……」

じぶんは、立ち止まった。

「あの判断、本当に正しかったんでしょうか」

彼は、私の目を見た。

「俺、あの質問を用意して…… でも、それって、嘘ですよね」

じぶんは、黙っていた。

「どうしたらいいですか?」

彼の声は、震えていた。

じぶんは、答えを持っていなかった。

「…わからない」

それだけしか、言えなかった。彼は、うつむいた。しばらく沈黙が続いた。

じぶんは、自分のデスクの付箋に目をやった。「忠君愛国」と書かれた、たった一枚。

「君は、疑問を持ったんだな」

彼は、顔を上げた。

「それは…悪いことじゃないと思う。たぶん、みんなそうやって決めてきたんだと思う」

雨音が、その言葉の続きのように響いた。私は、それ以上、何も言えなかった。

彼は、小さく頷いた。

「…ありがとうございます」

彼は、自分のデスクに戻った。私は、鞄を持って、オフィスを出た。


しかし、帰り道、ふと立ち止まった。

じぶんは、何もしなかった。

若手社員に、「批判しろ」とは言えなかった。彼には、家族がいる。

上司に、「判断は間違っている」とも言えない。私は、ただの総務だ。

動かない。

「行動しない勇気」

そう言い聞かせた。

でも、本当は、ただ、怖かっただけかもしれない。正直に言うと、怖かった。我ながら、情けない。

祖父が教えてくれた「諫言」。
私は、それを、できなかった。

冷たい雨が、顔に当たる。答えは、まだ見つからない。でも、一つだけ、わかった。「ほどほどに」とは、人間の限界を、認めることだ。

それを、誰かが臆病と呼んでもかまわない。でも、その冷たさが、私を、確かに、生かしている。

逃げたのか、立ち止まったのか。
まだ、わからない。

でも、雨は、確かに冷たかった。
そして、私は、気づいた。


「忠君愛国」の対概念は、「批判」じゃない。
それは、もっと静かなものだ。

誰かに尽くすのではなく、自分の良心に、忠実であること。

極端な忠誠と、極端な反抗の、
その間を、揺れながら生きる。

それが、本当の「忠」だ。


家に帰り、窓を開けると雨はまだ降っていた。

でも、音が、少しだけ、優しくなった気がした。何かが、確かに、動き始めていた。

翌週。若手社員は、まだ悩んでいた。でも、彼のデスクには、私が貼った付箋が残っていた。

「疑問を持つことは、悪いことじゃない」

彼は、それを、じっと見つめていた。
そして、小さく、頷いた。

見届けること。
それが、今の私にできることだった。

疑問を持つこと。
それを、静かに共有すること。

小さな一歩だ。

本当に小さい。
誰も気づかないくらい、小さい。

けれど、その一歩が、誰かの『忠実』を、静かに照らしていく。

じぶんの人生こそ、未来への言霊だ。
そう、信じるしかなかった。

雨は、まだ降っている。
あの日の答えは、まだ出ていない。

ただひとつだけ、分かっている。

私は、あの日、自分に嘘をついた。

会社のためじゃない。
自分が、怖かっただけだった。

(完)


本作はフィクションです。本作における歴史解釈は、一部、思想的再構成を含みます。また、現実にありそうな出来事をもとにした創作であり、特定の企業・団体・個人とは一切関係ありません。


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