【ショート・ショート】なぜ夫婦は、近づくほど壊れるのか|50センチの夫婦

知る幸せと知らない幸せシリーズ

短い言葉を紡いだ物語です。
静かな場所で、ゆっくり読んでみてください。

目次

夫婦の距離は、ゼロにならない。

春の雨が、
何かを訴えるように、窓を叩いています。

カフェにつながるワーキングスペース。
6畳ほどの部屋です。

「お二人の間には、どれくらいの距離があると思いますか?」

カウンセラーが訊きました。

「物理的な距離なら、測れますかね」

カウンセラーが床に定規を置きました。
二人が、それぞれ測ります。

「50センチです」

声が、重なりました。

「本当に、同じ50センチでしょうか?」

カウンセラーは答えを求めませんでした。
窓の外を見ています。

沈黙が、降る雨のように長くなりました。

知らない幸せ

20年前の春。
図書館のベンチです。

彼女は本を読んでいました。
日差しが横顔を照らしていました。


知りませんでした。
彼女が一途に尽くすことも。

知りませんでした。
彼女が言葉にしないことも。

知りませんでした。
彼女が沈黙で抗議することも。


知らなかったから、
美しかったのです。

本を読む姿に、
懐かしさを感じました。

初めて見る人なのに、
ずっと昔から知っているような。

声をかけました。
彼女は微笑みました。

デートを重ねて、手を繋いで、
肩が触れて、唇を重ねました。

物理的な距離がゼロに近づくほど、
心もゼロになると信じていました。

結婚式で誓いました。
必ず彼女を幸せにします、と。

あの頃は、知りませんでした。

人と人の間には、
決して埋まらない距離があるということを。

知らなかったから、
幸せでした。


崩れゆく日常

結婚5年目です。
着替えていると、妻が別のシャツを差し出しました。

期待が声に滲んでいました。
そのシャツを着ました。
妻の表情が曇りました。

7年目です。
妻はスーパーに誘わなくなりました。
LINEで指示が来ます。卵、牛乳、明日のパン。

9年目です。
ある夜、ベッドで妻の背中に触れようとしました。
肩が強ばりました。
手を引きました。
それから、触れなくなりました。

10年目です。
娘が小学生になりました。
習い事で遅くなる日が増えました。
家に二人だけでいる時間。
会話が、さらに減りました。

11年目です。
朝、テーブルに朝食がありません。
妻は子どもと、自分の分だけ食べています。
会社に向かうとき、ゴミが玄関に置いてあります。
やがて、朝の挨拶もなくなりました。

娘の存在

13年目です。
娘が中学生になりました。

「ママに、これ渡しといて」

私が娘に、封筒を渡します。

「パパに、これ」

娘が私に、別の封筒を渡します。
同じ家にいるのに、娘を介します。

直接、渡せません。
直接、話せません。

娘が、私たちの「間」にいました。

惹かれなくなった日

15年目です。
娘が高校生になりました。

妻がリビングを横切ります。
苛立ちを隠さず、何かを威嚇するように歩きます。

その瞬間、気づきました。
もう、惹かれていません。

知ることで、
美しさが消えました。

図書館で本を読んでいた彼女。
あの横顔は、もうどこにもありませんでした。

我慢の限界

その夜、妻が言いました。

「もう、無理」

諦めの声です。
20年で初めて聞く、その音色。

「何が無理なんだ」

訊いた瞬間、わかっていました。
私が、無理なのです。

「全部」

全部。
妻の人生から、
私を消去する。

そういう意味でした。

妻は立ち上がりました。
寝室に消えました。

追いかけませんでした。
追いかける言葉が、ありませんでした。

家を出る

翌朝、荷物をまとめました。

クローゼットから服を出します。
洗面所から髭剃りを取ります。

妻は、リビングにいました。
何も言いませんでした。

玄関を出ました。
振り返りませんでした。

会社近くのアパートで、
一人暮らしが始まりました。

娘が見ていた

3ヶ月後。
娘の20歳の誕生日です。
レストランで三人。

娘が話します。
バイトの話。ゼミの話。
会話は娘を中心に流れました。

私と妻は、目を合わせませんでした。

ケーキが運ばれてきました。
ろうそくに火が灯ります。

私と妻が同時に歌い始めました。
声が重なります。

娘は目を閉じました。

息を吹きかけます。
火が消えます。

拍手。三人で。

娘がバッグから封筒を取り出しました。

白い封筒。
宛名はありません。

娘はそれをテーブルの中央に置きました。
私と妻の、ちょうど中間に。

何も言いませんでした。
私は、それを開けることができませんでした。

娘が何を見ていたのか。
知ることが、怖かったのです。


帰り道。
娘が、私と妻の間を歩きました。

娘が微笑みました。
私と妻は同時に歌いました。
声が重なったのです。

昔は、そんなことはありませんでした。
娘は、見ていたのです。

その封筒の中には、一枚のメモがありました。
後で、一人で開けました。

「二人で、話してみて」

娘の字でした。
裏には、カウンセリングルームの住所が書いてありました。

カウンセリング

カウンセリングが始まりました。

「お互いに、何を期待していたんでしょうね」

カウンセラーの問いに、
妻が答えました。

「あなたを理解したかった。完全に。もっと一緒にいたかった。いつも」

私は、何も言えませんでした。

「『完全に』と『いつも』……」

カウンセラーは、
その言葉を繰り返しました。

沈黙。

「では、何が可能なんですか?」

妻が、続けて訊きました。

カウンセラーは私を見ました。

「『ほどほど』と『ときどき』です」

私が、初めて声に出して言いました。

カウンセラーが微笑みました。


ある日、カウンセラーがメモを差し出しました。

「お互いの、好きなところを一つ、書いてください」

ペンが止まりました。
隣を見ると、妻はすぐに書き始めていました。

私は書けませんでした。

「来週までに、考えてきてください」

その一週間、
ずっと考えました。

次の週。

紙に書きました。

「静かなところ」

妻の紙には、
こう書いてありました。

「娘を、大切にしてくれたこと」

交換して読みました。
妻の目が、潤んでいました。

私も、同じでした。

50センチ

冬が来て、春が来ました。
妻がカウンセラーに紙を渡しました。
カウンセラーがそれを私に渡します。

紙には、こう書いてありました。

「別居は続けたい。でも、週に一度、会いたい。このカフェで。50センチ、離れて」

妻が、初めて距離を提示しました。
ゼロでもなく、無限でもなく。

50センチ。

その距離を、妻が選びました。

私は頷きました。

紙の裏に、小さな字がただ一行、
書かれていました。

「この距離なら、二人とも守られる」


カフェにつながるワーキングスペース。
2年が経ちました。

カウンセラーが、また訊きました。

「お二人の間には、どれくらいの距離がありますか?」

「物理的には50センチです」

「心理的にも50センチです」

「同じ50センチですね」

カウンセラーは、また窓の外を見ました。

私たちは、新しいアパートに移りました。

リビングには、二つのソファ。
寝室には、二つのベッド。

同じ屋根の下の、別居です。

「間」があります。

外に出ました。
雨は上がっていました。

知る幸せと知らない幸せ

並んで歩きます。
50センチの距離を保ちながら。

娘が働くカフェに入ります。
向かい合って座ります。

娘がコーヒーを運んできます。
二つのカップを置きます。

50センチ、離れています。
娘は何も言いません。

それぞれのカップに口をつけます。
窓の外では、また雨が降り始めていました。

知らなかった頃の幸せ。
知った今の幸せ。

妻は、カップを両手で包みながら、小さく頷きました。私も、同じようにカップを包みました。

雨の音が、50センチの「間」を、
静かに満たしていました。

妻は知っていたのです。
この距離が、私の怖れから生まれたものだと。

妻は50センチを選びました。

50センチの向こうで、
妻がカップを置きました。

私も、カップを置きました。

同じタイミングで。
まるで、何年も前から、そうしてきたかのように。

窓の外では、
雨が——まだ、降り続けていました。

店を出ました。
傘を差しました。


ほんとは、
そんな未来を、築きたかった。

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