※この物語には、教育における言葉の暴力が含まれます。読むのが辛いと感じたら、無理をしないでください。
約3,000字の物語です。でも、最後まで読んだとき、言葉の意味を少し違う角度から感じてもらえるかもしれません。
私は昔、ひとりの中学生を壊しました。
殴ったわけではありません。
暴力を振るったわけでもありません。
ただ、言葉を使っただけです。
「君は本当にバカだな」
その言葉を言った瞬間、
私は自分が優秀な先生になった気がしました。
でも三ヶ月後、
私はある言葉を聞きます。
「僕はダメな子だ」
その言葉を言わせたのは、
私でした。
私の意地
鏡の中の化け物が、私を見つめていた。
血走った目。
削げた頬骨。
震える骨ばった指。
これが、意地に取り憑かれた人間の顔だった。
でも当時の私には、
弱さを隠すための痩せ我慢が必要だった。
高校三年生の秋。
東大合格への意地を胸に、
私は一日二十時間の勉強を続けていた。
朝五時に起きて、深夜一時まで。
机が、私のすべてだった。
友人の誘いは断った。
食事も、教科書を開いたまま。
周囲からは「狂気だ」と言われた。
それでも私は続けた。
苦しかった。
でも、どこか美しい日々だった。
三番目の息子だった私は、
兄たちよりも出来が悪かった。
だから、意地でも東大に行かなければならなかった。
劣等感を隠すために。
合格発表の日。
私の名前は、そこにあった。
この意地が、
私を東大生にしてくれた。
家庭教師
大学二年生の春。
私は家庭教師のアルバイトを始めた。
担当は、中学三年生の男子生徒。
数学が苦手で、
高校受験を控えていた。
彼は、ノートの端に
いつも小さな野球選手の絵を描いていた。
「君なら必ずできる。
僕と同じ勉強法で頑張ろう」
私の頭の中には、
すでに美しい物語が出来上がっていた。
彼を合格させる。
そして言われる。
「さすが東大生ですね」
私は自分の勉強法を押し付けた。
「公式を全部暗記するんだ。
僕は数学の公式を丸暗記して、パターンを覚えた。君もそうすれば成績は上がる」
彼は困った顔をした。
「でも、僕は暗記が苦手で……」
パキン。
心の奥で、
何かが割れた。
意地は、諸刃の剣だった。
弱さから生まれる力だからこそ、
扱い方を間違えると、簡単に醜いものになる。
でも、その時の私は気づいていなかった。
「甘えるな」
私の声は、氷のように冷たくなった。
「僕だって最初は苦手だった。
君もやればできる」
私は戒めの言葉を使った。
「君のため」という
美しい看板を掲げて。
でも、本当は違った。
それは、
私のためだった。
意地悪
「なぜできないんだ!」
私は彼を怒鳴った。
「僕は毎日これ以上やっていた。
君は甘えているだけだ!」
彼の目に涙が浮かんだ。
小さな肩が震えている。
唇を噛みしめている。
ノートの端の野球選手が、
涙で滲んでいた。
「頑張ったんです。
でも、僕には無理で……」
「無理じゃない!」
私は叫んだ。
「そんなこともできないのか。
小学生でもできることだぞ。」
そして、私は言った。
「君は本当にバカだな」
彼は小さくなった。
まるで、消えてしまいたいかのように。
机の下に隠れるように身を縮め、
震えていた。
私は、彼を侮辱していた。
意地を引き出そうとして。
でも実際にしていたのは、
人格否定だった。
私は彼を
一人の人間として見ていなかった。
自分の成功を証明するための
道具として見ていた。
それなのに私は、
自分のことを
正しい先生
だと思っていた。
三ヶ月後
三ヶ月後。
彼の母親から電話がかかってきた。
声は、どこか申し訳なさそうだった。
「先生、少しお話いいでしょうか」
私は軽い気持ちで受話器を取った。
まさか、この電話が自分の人生を変えるとは思っていなかった。
母親が、静かに話しはじめた。
「息子が……
最近、勉強を嫌がるようになってしまって」
母親は続けた。
「夜中まで公式を暗記しているんです。
でも、覚えられなくて……泣いているんです」
胸の奥が、少しざわついた。
そして、母親は言った。
「息子が、こう言うんです」
少しの沈黙。
その沈黙が、やけに長く感じた。
「僕はダメな子だ」
その瞬間、
世界が止まった。
「また先生に怒られる」
血の気が引いた。
胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
一人の子どもが、
自分をダメな子だと思っている。
私のせいで。
母親は続けた。
「息子は言うんです。
『僕が頭が悪いから、先生を怒らせちゃった』って」
電話を切ったあと、
私は床に崩れ落ちた。
そのとき、初めて気づいた。
私は、意地を押し付けていたのだ。
意地を引き出そうとして、
ただ、意地悪をしていたのだ。
謝罪
私は彼の家を訪ねた。
謝罪するために。
彼は私を見るなり、
小さく身を縮めた。
その瞬間に理解した。
私は彼にとって、
恐ろしい存在だった。
「本当にごめん」
私は土下座した。
彼は何も言わなかった。
ただ、怯えた目で
私を見ていた。
母親が言った。
「息子はまだ勉強が怖いと言っています」
そして、こう続けた。
「息子は言うんです。
『僕が頭が悪いから、
先生を怒らせちゃった』って」
その瞬間、
私は声を上げて泣いた。
彼は私を責めていなかった。
自分を責めていた。
これが、
愛という名の暴力の恐ろしさだった。
被害者は、
自分が悪いのだと思ってしまう。
五年後
五年が過ぎた。
私は中学校の教師になった。
自分の中の悪魔を、
忘れないために。
夜中に目が覚めることがある。
彼の声が聞こえる気がして。
「僕はダメな子だ」
そのたびに、私は祈る。
彼がどこかで、
ノートの端に描いていた
あの小さな野球選手のように、
自分らしい何かを
大切にして生きていることを。
それが、
私にできる唯一の贖罪だった。
意地という言葉
あの出来事のあと、
私はずっと考えていました。
意地とは、何なのか。
子どもの頃、祖父が言っていた。
「意地を持て」
その言葉は、
美しい意味だった。
意地とは本来、
意を地に据えること。
自分の心を
大地のように安定させること。
自分を支える力だった。
でもいつの間にか、
意地は
意地を張る
という言葉に変わった。
頑固さ。
執着。
そして最後に、
こういう言葉が生まれた。
意地悪。
私は、その変化を
自分の人生で辿っていた。
最初は、東大に合格するための美しい意地を持っていた。
自分を支える信念として。
でも、それが「僕のやり方が正しい」という頑固さに変わった。
意地を張るようになった。
そして最後には、
彼を苦しめる意地悪に堕ちてしまった。
意地から意地悪への道のりは、
こんなにも短かったのです。
私は、自分の心を他人に押し付けていた。
だから私は意地悪だった。
本来の意地──
自分を支える美しい力を、私は見失っていたのです。
鏡の中の化け物
鏡の中の化け物は、
まだ私を見つめている。
でも今は、
私もその化け物を見つめ返している。
もう、
目を逸らさない。
もしかすると、あなたの中にも
鏡の中の化け物がいるかもしれません。
私のように。
でも、気づいた瞬間から
見つめ返すことはできる。
私は、そう信じています。
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