【BLOG/エッセイ】なぜ、家族なのにこんなに孤独を感じるのか―分かり合えない人間の構造

家族なのに、どうしてこんなに孤独なのだろう。
分かり合いたいのに、なぜ伝わらないのだろう。

「人」には、「間」があるから、「人間」という。
この言葉を、最近よく考えます。

人と人の間。
その間に、何があるのか。

埋められない距離。

誰も、完全には理解されない。
誰も、完全には理解できない。

人間は、根源的に孤独です。それを、私は否定できませんでした。

目次

人は、孤独である

生まれるときは、一人。
死ぬときも、一人。
どんなに近くにいても、心は一人。

人は、わかりあえない。

わかりあえたと思った瞬間も、本当は、ほんの一部を触れただけかもしれない。

親子だろうが、兄弟だろうが、親友だろうが、恋人、夫婦だろうが。
そして、同じ志をもつ仲間だろうが。

「人」には、「間」があるから、「人間」という。
その「間」は、埋められません。

これが、人間の構造です。

孤独だから、繋がろうとする

人は、孤独です。だから、繋がろうとします。

誰かに理解されたい。
誰かに愛されたい。
誰かと一緒にいたい。

そして、何かを成し遂げたい。自分の存在を、この世界に刻みたい。

正しさを求めます。
自分の中の理想。

正しい親、正しい子、正しい妻、正しい夫。
それを、自分にも、他人にも、求めます。

完璧でいなければ、愛されない。
弱さを見せたら、見捨てられる。

家族の顔と、社会の顔が、混ざります。

孤独だから、我慢する

だから我慢します。ただ耐えるためではありません。
むしろ、心の奥底で、こう思ってしまうのです。

「私が正しい」

そう思わなければ、自分が崩れてしまうから。

正しいやり方、正しい考え、正しい態度。それが、自分の役割であり、存在理由であり、愛される条件だと思い込む。

でも、誰も褒めてくれない。
誰も認めてくれない。

それでも、私は正しい。
だから、我慢は止まらない。

弱さを見せることは裏切りです。
手を抜くことも、逃げることも、許されない。
自分が正しいと思う限り、我慢は続きます。

私は、これが我慢の正体ではないかと考えています。
孤独を埋めるために、正しさに執着する。

錨の孤独

先日、ひとつの物語を書きました。
ある母親が、孤独に気づく物語です。

その物語の中に、「錨」が出てきます。
錨は、船を繋ぎ止めます。

家族を支えるために。
誰かを守るために。

母親は、錨でした。父親も、錨でした。
でも、錨そのものは、海の底で一人です。

波は揺れ、船は動きます。
でも、海の底の錨は誰にも見えない。

誰にも分からない。それでも耐え続ける。
それが、役割を背負う孤独です。

物語の中で、彼女は最後にこう気づきます。

最初から誰もいなかったのは、この部屋ではなく、私の中でした。

知る幸せと知らない幸せシリーズ‐性孤説・運命の錨

人は、そもそも孤独です。この事実を、受け入れる。

孤独を受け入れる

孤独を受け入れた時、何かが変わります。

執着を手放せます。
我慢を置けます。

完璧でなくてもいい、と思えます。

一人で、いい。

そう思えた時、逆説的に、人と繋がれるようになります。

孤独を受け入れた先にあるもの

孤独を受け入れた先に、深い理解があります。
親の想いが分かります。

なぜ、あんなに怒っていたのか。
なぜ、あんなに厳しかったのか。
なぜ、何も言わなかったのか。

親も、一人だったのだと。孤独だったのだと。
でも、だからこそ、愛していたのだと。

性孤説

人間は、根源的に孤独である。
孤独だから、繋がろうとする。

孤独だから、我慢する。そして、ときに、苦しむ。

でも――

孤独を受け入れた時、優しくなれる。
孤独だからこそ、手を伸ばせる。

だから私は、この構造を「性孤説」と呼んでいます。

「人」には、「間」があるから、「人間」という。その「間」は、埋められません。

でも、その「間」があるからこそ、手を伸ばせます。
その「間」があるからこそ、優しくなれます。

人は、一人で生まれて、一人で死ぬ。
でも、その「間」に、誰かと手を伸ばすことができる。

その瞬間、孤独は少しだけ柔らぐ。

それでいい。
それだけで、いい。

それが、人間なのかもしれません。
それでも、人は、また手を伸ばす。

もしあなたが、「正しいのに苦しい」と感じているなら、その理由は、言葉の中にあるかもしれません。

目次