※この物語には、自分を傷つける言葉が出てきます。
暗闇の奥にある思想文学ですので、読むのが辛いと感じたら、無理をしないでください。
娘が家を出てから、もう三年が経ちました。
でも——今でも、あの夜のことを思い出します。
「良い親でなければ」
そう思い続けた日々。笑顔を作るたびに頬の筋肉が軋み、背骨が重力に逆らっているのを感じました。
体に鉛を飲み込ませたような重さでした。
ある夜の食卓。
冷めたお茶。誰も口をつけない料理。
向かいの席に、誰かが座っていました。
そのとき——
その声が、響きました。
「死ね」
その瞬間、すべての音が止まりました。
そして、私の中で何かが崩れ落ちました。
あの言葉が、今も、呼吸のたびに胸に薄いガラスの器のように張り付いています。
眠れない夜が続きました。
小学生の頃、両親が喧嘩しているのを見て、「仲直りすればいいのに」と思っていました。
あの頃の私は、家族の複雑さも、大人の孤独も知りませんでした。
父と母は、互いに何も言わずに、何日も食卓で向き合っていました。
部屋の空気は、冬の朝のように冷たく、そこにいるだけで喉が凍りつくようでした。
私は、その冷たさの中で、ただじっとしていました。
自分の知っている小さな世界が、世界のすべてだと深く思い込んでいました。
そして、知らずにいた幸せでした。
思春期のある夜、私は一人で歩いていました。
その日、何があったのか、もう覚えていません。
ただ、家にも学校にも、居場所がないような気がしていました。
教室で、誰も私に話しかけませんでした。廊下ですれ違っても、誰も目を合わせませんでした。
家に帰れば、冷たい空気が待っていました。
誰とも歩調を合わせずに歩いた道で、初めて自分の足音を聞きました。
アスファルトに響く、カツ、カツという乾いた音。
それは、誰かと一緒にいるときには決して聞こえなかった音でした。
街灯の下を、私は何度も同じ道を行ったり来たりしていました。
コンビニの明かりが見えました。でも、入る勇気がありませんでした。
公園のベンチに座ろうかと思いました。でも、暗くて怖くて、また歩き出しました。
家に帰りたくなかったのです。
でも、結局、家に帰りました。
そして——その夜、あの言葉が、初めて口をついて出ました。
やがて、誰かと共に生きるということを知りました。
結婚し、家族ができました。
夜中、子どもが泣いたとき、私はすぐに目を覚ましました。
額に手を当てて熱を測る。お茶を静かに淹れる。小さな手を握って、眠りにつくまで見守る。
そんな小さな仕草の一つ一つに、言葉にならない愛があることを知りました。
父が、私に何を感じていたのか。親が、どんな想いで私を見ていたのか。
親になって初めて、その重さを知りました。
娘が小さかった頃——
三人で食卓を囲む。温かいお茶。
娘は、私たちを見て笑っていました。
「お父さんとお母さん、仲良しだね」
その言葉が、どれほど娘にとって大切だったのか。
私は、知りませんでした。
でも、いつしか——
夫との会話が減っていきました。
家族の写真を撮るたびに、「ほら、笑って」と言ってしまう自分がいました。
カメラを置くと、また冷たい空気が戻ってきました。
娘は、それを見ていました。
夕食の準備をしながら、「今日どうだった?」と聞いても、返事はありませんでした。
スマートフォンの光に照らされながら、それぞれが別々の海を漂っているようでした。
朝、淹れたお茶を、誰も飲まずに冷めていくのを見ていました。
「いってきます」
私は、「いってらっしゃい」と答えました。
誰も振り返りませんでした。
ある日、娘の部屋から物音が聞こえました。
ドアを開けると、娘は荷物をまとめていました。
「どこか行くの?」
娘は、荷物を詰める手を止めて、私を見ました。
「お母さんは、何も知らないんだね」
私は、言葉が出ませんでした。
それから、娘は家を出ました。
部屋を片付けていると、古いノートが目に入りました。
思春期の頃、誰にも見せずに書いていた私の日記帳でした。
ページを開くと、あの日のことが書いてありました。
「今日も、誰も話しかけてこなかった。家に帰っても、誰もいない。私は、ここにいてもいいのだろうか」
友だちを失い、両親まで失うかもしれない恐怖。誰にも理解されない孤独。
そして——あの言葉。
ページの隅に、見慣れない筆跡で一行が加えられていました。
その文字を指でなぞると、乾いたインクは微かに冷たかった。
「錨は、船を繋ぎ止める。」
その文字は、私の父のものでした。
父は、何も言いませんでした。
ただ、この一行を残しただけでした。
そして今——
また、あの夜が来ました。
ある夜の食卓。
もう誰もいない食卓に、お茶を一つだけ置きました。
それも、冷めていきました。
父の日記を、もう一度開きました。
「錨は、船を繋ぎ止める。」
私は、その余白に、震える手で書き加えました。
「でも、錨そのものは、海の底で一人だ。」
娘の部屋のドアを開けました。
部屋には、誰もいませんでした。
鏡に、私が映っていました。
その顔を見て、理解しました。
あの夜——
「死ね」と言ったのは、娘ではありませんでした。
思春期のあの日も——
親に向かってではありませんでした。
最初から誰もいなかったのは、
この部屋ではなく、私の中でした。
