【BLOG/エッセイ】「誰かのために」という呪縛—あなたは、何に縛られていますか?

※これは、頑張ってきた人を否定する話ではありません。

先日、久しぶりに会った後輩に「誰かのためにじゃなくて、自分のために生きてください」とエールを送られました。

その瞬間、悔しいと思うよりも、「ハッ」としました。

私は、目の前のことを、猛進して生きてきました。

会社のために。

家族のために。

社会のために。

その想いは、正しいと信じてきました。

でも、後輩の言葉に、一筋の光を感じました。

自分の信じる道に突き進んだ結果、出口が見えなくなっていたのではないかと。

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私も、死ぬ気で働いたことがあります

私は、死ぬ気で働いたことがあります。

365日、睡眠時間3時間。約7年間。

誰かに推奨するつもりはありません。

でも、あの経験が、今の私を創りました。

それは確かなことです。感謝しかありません。

この複雑な感情を、どう説明すればいいのか。ずっと考えていました。

そして、気づいたのです。

これは、私だけの問題ではないと。

先人たちも、同じだったかもしれません

これは、過去の話ではありません。同じ構造を、私たちは今も生きています。

「七生報国」という言葉があります。

楠木正成、栗林忠道。

彼らは、「七度生まれ変わっても、国のために戦う」と誓いました。

でも、栗林中将は、息子に手紙を書きました。

「家に居る時は母や妹達と愉快に話をし、冗談の一つも飛ばして家の中を明るくする事が大切である」と。

推奨はしない。

でも、覚悟を決めて辞世の句を残した。

私たちは、まだ同じ場所にいる

20年以上、社会に携わってきて、私は見てきました。

「家族のために」と言いながら、倒れるまで働く人を。

「責任」という言葉に縛られて、心身を壊していく人を。

「我慢」という、自身の執着に身を亡ぼす人を。

これは、努力でしょうか。

それとも、言葉に縛られた生き方だったのでしょうか。

私たちを縛っているのは、自分自身

大きな正義—「世界」「国」「政治」

身近な義務—「責任」「家族のために」「会社のために」

感情的圧力—「当然」「普通」「同調圧力」

どれも、逆らいにくい言葉です。

でも、これらの言葉を、誰が言っているのでしょうか。

誰かではなく、自分自身です。

それは、自分自身の我慢(執着)。

私たちは、誰かのために生きていると思っている。

でも、実は、自分が納得するために、誰かのために生きているのかもしれません。

自分のアイデンティティを守るために。

自分の存在価値を証明して、自尊心を満たすために。

それは、悪いことではありません。

人間は、そういうものです。

でも、それで倒れてしまったら。

心身を壊してしまったら。

それは、本当に「誰かのため」だったのでしょうか。

推奨はしない。そして、選べる。

私は、過去の自分の選択を、否定も肯定もしません。

先人たちの「七生報国」を、感謝と敬意を表しますが、美化はしません。

ただ、最近、考えます。

「誇り」は、必要なのだろうか、と。

ここで言う誇りとは、「過去の選択を支えにする感情」です。

自尊心を満たすために誇りにしがみつくのであれば、それは、新たな我慢(我執)となります。

それは、前に進むための誇りではなく、立ち止まるための理由になることもあります。

そして、その誇りを他人に押し付けた時、それは呪縛になります。

本当の自尊心とは、もしかしたら、誇りも、後悔も、持たないこと。

ただ、いまを受け入れること。

今を生きる私たちには、選択肢があります。

過去に縛られず、今を生きる。

今日ひとつだけ手放すとしたら、

あなたは何を選びますか。


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