忘却の言葉たちシリーズ
なぜ、人は「おかしい」と思っても、黙る方を選んでしまうのか。
本来「忠」とは、誰かに従うことではありませんでした。自分の良心に、心を尽くすこと。
目上の人が道を外れたとき、自らの立場を顧みずに諫めること。それが、本来の忠義でした。
【物語】忠君愛国|
会社のために嘘をついた日、
私は自分を失った|
沈黙という批判
諫言ができる人と、できない人
先日、20年来の取引先にこう言われました。
「べーさんはさ、Excuseするのやめた方がいいよ。調子いいとか、悪いとか。オレらはその言葉に振り回される。普通っていえばいいんだよ。」
「あんたの人生の本があったら、面白いんだから」
ぐうの音しかでず、何も返せませんでした。
「あんた、変わったよ」と言われた気がして、悔しかった。昔はよくて、いまは違うと、言われたような気がしました。
たぶん、正しい。
でも、何も知らない。
生き残るために選んだ道を、どこかで、否定された気がしてしまいました。
諫言(かんげん)ができる人と、できない人。
この違いは、どこから来るのか。
諫(いさ)めるとは、目上に意見を言うことです。
目上の人は、自分と見ている世界が違うのだから、意見などいえない。そもそも物申せるほど近くもない。
きっと、深い考えがあるのだろうと、勝手に諦めてしまう。
「忠」の意味が、「富国強兵」で変わった
江戸時代、「忠」とは「真心を尽くす」ことでした。
盲従ではなく、自分の良心への忠実。主君の過ちを命がけで諫めることが、忠義とされていました。
しかし明治以降、「忠」の意味は変わります。
それまでの「忠」は、良心に対して誠実であることでした。
しかし近代以降、「忠」は、国家に従うことへと転じていきます。
疑問を持たないこと。
従うこと。
その価値観は、戦後も形を変えて残りました。
「会社のために尽くせ、疑問を持つな」
対象が、変わっただけなのかもしれません。
分かっていても、従う。
おかしいと思っても、従う。
その方が、楽だからだ。
この構造は、いまも続いている。
果たして、国のトップに、諫言できる人はいるのだろうか。ニュースをみて、ふと、そんなことを考えてみる。
「上に優しく、下に厳しい」という構造
私たちは、上司の間違いを、指摘できるでしょうか。違和感はあっても、直接物申すのは難しいはずです。
でも、部下の間違いには、厳しくなってしまう。
クライアントのミスは流すのに、下請けのミスは徹底的に詰める。
経営の判断には従うのに、現場には細かく指導する。言えない場所では黙り、言える場所で強く出る。
そんな構造が、どこかにある気がします。
上司には言えなかったのに、部下には強く言った。あのときの自分が、浮かんでくる。
では、なぜ、こうなるのでしょう。
上には、逆らいにくい。
ただ、それだけなのかもしれません。
現場は気づいている。でも、誰も言わない。
「言ったら面倒が起きる」という恐怖が先に立つ。これが、言えない空気です。
言えなかったことは、消えない。
形を変える。だから、人は歪む。
諫言できない構造が、「我慢」を生む
疑問を持っても言えない。不満があっても飲み込む。愚痴を、別の場所に流す。それが続くと、どうなるか。
不満は、消えません。
内側に溜まり、静かな怒りに変わる。やがて、「自分は正しい」という執着になる。
それを、現代の私たちは、
「我慢」と呼んでいるのかもしれません。
批判と諫言は、何が違うのか
批判は、誰に対してもできる。でも、諫言は違います。目上の人に対して、その人のためを思い伝える。
批判は、論理でできる。
でも、諫言には、覚悟がいる。
言えば、孤立するかもしれない。
それでも、言うのか。自分だったら、どうするのか。
諫言ができなくても、境界線は引ける
正直に言えば、諫言は難しいです。顧みない勇気が必要です。
それでも、多くの人は気づいています。「おかしい」と思った瞬間があったことを。
でも、「どう思われるか」が先に立つ。
孤立が怖い。だから、飲み込む。
気づいたら、組織の方を選んでいる。
違和感だけが、残る。
批判と忠誠のあいだ
極端な忠誠は、盲従になり、
極端な批判は、破壊になる。
そのあいだにあるもの。それが、諫言なのかもしれません。
小さな抵抗
目上の人へ疑問をもったら、
黙るのか。それとも、伝えるのか。
正直に言えば、私にも分かりません。
それでも、忠誠を誓う大切な人には、良心に従い、私も、そうありたいとは思っています。
仕事を失うかもしれないと思った瞬間、言葉は止まります。生活が、かかっていますから。
守るものがある人ほど、簡単には言えません。
だから、大きなことは、できない。
それでも、ひとつの境界線は引けます。
Excuseしない。
自分に言い訳しない。
人として、義に反していないか。
なんのための仕事なのか。
たとえば、会議で何も言えなかったとしても、
帰り道で「本当にあれでよかったのか」と疑問をもち、自分に嘘をつかないこと。
何も言えなかった日でも、その違和感だけは、握りつぶさないこと。
それすら、できない日もある。
気づいたら、握りつぶしている。
正直に言えば、次も言えない。
また黙るかもしれない。
それでも、その沈黙に慣れてしまったら、自分まで失ってしまう。
気づいたら、何も言わないことに慣れている自分がいるかもしれない。
だから、問いだけは手放さない。
正しい答えじゃなくていい。
うまく言えなくてもいい。
それでも、自分はどう生きるのか。
