【BLOG/エッセイ】なぜ、苦しんでいる人ほど、他人の言葉で生きているのか—「正しい」と「信じる」ことの違い—

「宗教は?」
そう聞かれて、彼は少し笑って答えました。

「宗教は信じない。自分を信じてる」
その言葉を聞いて、それだ!カッコイイ!と思いました。


先日、友人とこの場面の話をしていたとき、友人がふと、こう言いました。
「それ、今の時代を象徴していますよね」

そして彼は続けました。
「最近、自己肯定感って言葉をよく聞くじゃないですか。でも、本当に自分を信じている人って、少ない気がするんです」

「他人は変えられない。変えられるのは自分だけなのに、いつの間にか”自分の正しさ”を他人に押し付けるようになる」

少し間を置いて、彼は言いました。
「それは、自分を信じていないからだと思う」


目次

思い返せば、私もそうだった

思い返せば、私もそうでした。職場で理不尽なことを言われても、「波風を立てたくない」と黙っていた。

家族と意見が食い違っても、「家族を支えるため」と飲み込んできました。でも、心の奥では、いつも誰かのせいにしていた。

上司が悪い。親が悪い。社会が悪い。

そして気づけば、自分の「正しさ」を、誰かに押し付けようとしていました。

私たちは何を信じているのか

その帰り道、私は考えていました。私たちは、本当に「自分を信じている」のでしょうか。

初詣に行くから神道。
お盆に墓参りをするから仏教。
クリスマスを祝うからキリスト教。

あるいは、
お金があれば幸せになると思うから資本主義。
国を信じている、愛国精神があるから国家。

私たちは、いろいろな価値観の中で生きています。

そして、あらゆる言葉や思想に埋もれてしまい、「自分を信じていない」人も多いのではないでしょうか。

でも、もし聞かれたら…

「宗教は?」

私も、少し笑って答えるでしょう。
「宗教は信じない。自分を信じている」

こう言えるようになるまで、それは、長い月日がかかりました。

自分を信じていない、という事実

嫌なことがあっても我慢する。本当は言いたいことがあるのに「空気を壊したくない」と飲み込む。

我慢しても報われない。だから、誰かのせいにする。でも、他人は変わらない。すると今度は自分の正しさを押し付けてしまう。

この循環の奥にあるもの。
それは、自分を信じていない、という事実です。

自分を信じられないとき、人はどこかに「正しさ」を探します。

社会の常識や会社の価値観。親の教えや時代の空気。それらが、いつの間にか「常識や当然」になります。

たとえば、
「会社のために働くべきだ」
「家族のために我慢すべきだ」
「社会のために尽くすべきだ」

こうした言葉を、私たちは疑うことなく受け入れています。では、それは誰が決めたのでしょうか。

滅私奉公の本来の意味

先日、「滅私奉公」について、ひとつの物語を書きました。新人が、会社のために深夜まで働き、壊れかけていく物語です。

滅私奉公とは、自分の私(感情や欲求)を捨て、公(会社や社会)のために尽くすこと。

彼は言いました。

「会社に尽くすのは当然ですから」

【ショート・ショート】「会社に尽くすほど苦しくなる理由|滅私奉公」

この「当然」は、どこから来たのでしょうか。

日本には「滅私奉公」という言葉があります。私を滅ぼして、公に尽くす。とても強い言葉です。

でも、本来の意味は違いました。

もともとは「適私」私を適度に保ちながら、公に尽くすです。それが、いつの間にか「私を滅ぼせ」という意味に変わっていった。


言葉は価値観を運ぶ

言葉は、ただの道具ではありません。言葉は、価値観を運びます。そして気づかないうちに、私たちの生き方まで運んでしまうのです。

私たちは「自分を信じている」と言いながら、実は、誰かの言葉を信じているのかもしれません。

では、どうすればいいのか

では、どうすればいいのでしょうか。

価値観をすべて捨てればいいのでしょうか。宗教も、誰かの言葉だから捨てるべきでしょうか。

私は、そうは思いません。
本来、仏教も、神道も、儒教も、「自分を信じるための思想」でした。

自分の心を見つめ、自分を知り、自分を信じるための教えだったのです。

それが、いつの間にか「誰かに従う教え」に変わっていった。

だから、大切なのは、教えを捨てることではありません。

それを無意識に従うことでもありません。

自分の中で吸収することです。

たとえば、正しさを通すことと、自分を信じることは、似ているようでまったく違います。

正しさを通そうとするとき、人は誰かを変えようとします。
でも、自分を信じるとき、人はまず自分を見つめます。

自分を信じてスキルを身につけるために耐えることと、会社の方針に従って我慢することは、似ているようで、まったく違います。

前者は、自分の言葉で生きること。
後者は、誰かの言葉で生きること。

吸収するとは

吸収するとは、言葉を疑うこと。意味を知ること。そして、自分が何を信じているのかを見つめることです。

「我慢」はもともと「固執した心」という意味でした。
「滅私奉公」は本来「適私」でした。

言葉の意味を知るとき、私たちは初めて自分を縛っていた価値観に気づくことがあります。

我慢と、自分を信じることの違い

我慢と、自分を信じることは、似ているようでまったく違います。

我慢は、言葉に縛られること。
自分を信じることは、言葉を選び直すことなのです。

自分を信じるとは

自分を信じるとは、誰かの正しさに従うことではありません。

自分の感覚を、丁寧に確かめていくことです。でも、その答えはすぐには出ません。

正直に言えば、私もまだ、自分を信じきれていないのかもしれません。だから私は、いまも考え続けています。

私は、何を信じているのだろう。

言葉の本来の意味を知ること

私はこの問いを、長く考えてきました。言葉の語義変遷をたどりながら、私たちの価値観がどこから生まれてきたのか。

その過程をまとめたのが『考えるチカラと言葉にするチカラ』です。

もしあなたが、「自分を信じている」と言いながらどこかで違和感を感じているなら。言葉の本来の意味を知ることが、その手がかりになるかもしれません。

もしかすると、私たちはまだ、自分の言葉で生きていないのかもしれません。だから私は、言葉をもう一度、確かめ直してみたいと思っています。

自分の言葉で、生きるために

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